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連載 書店の街はどこへ行くのか ~早稲田と本、変わる距離
第2回
老舗古書店
安藤書店を訪ねて

変わる街、変わらぬ店

 「早稲田通りを歩けば本の匂いが漂っていた」
 早稲田鶴巻町で生まれ育った堀田輝彦さん(51・会社員)さんが語ったこの記憶は、街全体が書店の存在によって空気をまとっていた時代を象徴している。
 その風景を形づくっていた一軒一軒の古書店は、今どうなっているのか。かつて街に厚みを与えていた古書店は、その多くが姿を消していった。
 だが、その中で今も店を開き続ける店がある。早稲田通り沿いの古書店「安藤書店」である。街の記憶が薄れていく中で、変わらず古書の棚を守り続ける店は、いまどのような時間を刻んでいるのか。その姿を知るために、私は安藤書店を訪れ、店主・安藤紘子さんから話を聞いた。

82歳の店主が守るもの

 高田馬場駅と早稲田大学の中間地点であり、変化の激しい早稲田通りで静かに店を構える安藤書店は、創業から半世紀以上が経つ古書店である。店主の安藤紘子さん(82)は正確な創業年を「はっきり覚えていない」と笑うが、店が木造二階建てであったこと、そして扱う本のジャンルが当時とほとんど変わらないことは、今も鮮明に覚えているという。夫が始めた店を手伝いながら長年支えてきた安藤さんにとって、安藤書店は変わらないことそのものが魅力となってきた。

 古書店には「本が乱雑に積まれ、足の踏み場がない」という一般的なイメージがつきまとう。しかし安藤さんは、そうした古書店のハードルの高さを取り払うことに心を砕いてきた。「気軽に入って買えるお店にしたかった」と語るように、安藤書店では本が見やすいよう棚が整えられ、店頭には手に取りやすいワゴンが置かれている。ワゴンの陳列方法は夫の代から続くスタイルであり、「少しでも本を手に取る習慣につながれば」という願いが受け継がれてきた。

安藤書店の軒先に置かれたワゴン(2025年9月8日0時51分東京都新宿区西早稲田の安藤書店)松本倖河撮影

 この入りやすさへのこだわりは、安藤書店の静かな個性になっている。常連客の中には「他の古書店とは雰囲気が違う」と語る人も少なくない。店先の光が差し込むワゴン、本の背表紙が整然と並ぶ棚、奥に伸びる細長い通路。決して広い空間ではないが、迷い込むように棚を眺めていると、古書店特有の雑多さよりも、むしろ落ち着いた空気が漂う。

 安藤さんは、「お店の形を大きく変えることはしない」と言う。理由は明確だ。「お客さんにはここにはこういう本があるというイメージがあるので、変えすぎると戸惑わせてしまう」。同じジャンルの本を集める店、雑誌に強い店、専門書の宝庫の店のように、かつて古書店が何十軒も並んでいた早稲田では、店ごとの個性が競い合うように存在していた。その名残を、安藤書店は今も静かに守り続けているのだ。本の街・早稲田の風景が大きく変わってきた現在でも、安藤書店の佇まいは創業当初の面影を残している。変わりゆく街の中で変わらずにあり続ける古書店。その静かな存在感は、早稲田という土地が長く育んできた本の文化の記憶をとどめている。

学生が姿を消した理由

 かつての安藤書店は、学生たちの往来とともにあった。安藤紘子さんが店に立ち始めた1980年頃、開店と同時に学生が押し寄せ、文庫や専門書を求めて棚を漁る姿が日常だったという。「開店時間になると学生さんがバーッと来て並んでいました。昔は本当に多かったんですよ」と振り返るその声には、当時の熱気がまだ残っているようだった。

 しかし現在、店にやってくる学生は驚くほど少ない。「若い学生さんは、やっぱり来なくなりました」と安藤さんは繰り返す。客層の中心は年配の常連客。大学の近くにあるにもかかわらず、学生が姿を見せなくなった背景には、街の利用動線そのものが変化したことがある。

早稲田通りに店を構える安藤書店(2025年9月8日0時51分 東京都新宿区西早稲田の安藤書店)松本倖河撮影

 安藤さんによれば、昔の学生は節約のために高田馬場から大学まで歩くことが多かったという。歩くことで早稲田通りの古書店街を自然と通り、本屋に立ち寄る「ついでの出会い」が生まれていた。しかし近年、地下鉄やバスで大学へ向かう学生が増え、早稲田通りを歩く人そのものが減った。歩行者の減少は、偶然の来店の減少を意味する。言い換えれば、街と書店の接点が物理的に断ち切られてしまったのである。

 さらにスマートフォンの普及や書籍の購入行動のオンライン化も進み、学生が紙の本を必要とする場面は減った。「必要がなくなったというのも一因でしょうね」と安藤さんが語るように、読書習慣の変化は古書店の客層を大きく変えてしまった。

 店に残ったのは、昔から通う常連客たちだ。中には卒業生になったあとも店を訪れ、30分以上世間話をしていく人もいるという。「この店のことを青春の思い出として覚えていてくれるのは嬉しいですね」。と安藤さんは目を細める。学生文化とは別の文脈で、地域に根づいたコミュニティとしての役割が浮かび上がる。

 かつては学生街の古書店として、若い読者の熱気に満ちていた安藤書店。しかし今は、街の歩行者の流れも、学生の本の買い方も、まったく異なるものとなった。店の前を通る学生が減り、書店に寄るために「意識的に探す」時代になったことで、安藤書店の風景は大きく変わった。

 それでも店の中に漂う落ち着いた空気と、年配の常連客の会話が続く限り、この場所は確かに街の記憶を受け継いでいる。学生の姿が薄れた今でも、安藤書店は早稲田通りに静かに灯をともすように立ち続けている。

なぜ続けられたのか

 早稲田通りに並んでいた古書店の多くが姿を消す中で、安藤書店が今も続けていられる理由はどこにあるのか。安藤さんは、その問いに迷いなく答えた。「うちは自前の建物だから続けられるんです。家賃がかからないので助かっています」。

 古書店の経営は薄利であり、売り上げが下がり続ける中で家賃や光熱費の高騰は存続を左右する「致命的な条件」となる。多くの古書店が廃業を選ばざるを得なかったのは、この固定費の重さが最大の原因だった。安藤さんは続ける。「最近は古書店そのものが減りましたよ。家賃や光熱費が上がっているし、売り上げも下がっていますし、続けるのは難しいですよ」。街を歩いても古書店の看板がかつてほど目に入らなくなった理由が、この一言の中に凝縮されている。さらに店主の高齢化も重なり、体力的な理由から店を畳む人も多いという。

 つまり、安藤書店が生き残れた背景には、立地の優位性でも特別な収益モデルでもなく、自前物件という構造的有利さがあったのだ。

 それは同時に、早稲田の古書店文化を支えてきた基盤である、手頃な固定費、徒歩動線の豊かさ、学生との接点が、今の街から失われつつあることを示している。もし安藤書店が自前物件でなければ、他の多くの古書店と同じ運命を辿っていた可能性は十分にある。

 それでも、安藤さんが店を続ける理由は経済的な事情だけではない。「私はもう82歳ですけれど、人と話すことが健康につながると思っていて、それが楽しみでもあるんです。だから半分趣味みたいな気持ちでお店を開けているのですよ」。店に立ち続ける姿には、商売以上の「生活のリズム」としての古書店の意味がにじむ。友人や常連客と毎日言葉を交わす時間は、安藤さんの生きがいだ。「毎日話しているだけで若くいられるんです」。と笑う姿からは、古書店が提供しているのは本だけではなく、人と人を緩やかにつなぐ居場所でもあることが伝わってくる。

 早稲田の古書店文化が急速に姿を変える中で、安藤書店はその最後の灯のように残っている。経営の合理性だけでは語りきれない思いと、長年積み重ねた人とのつながりが、この小さな店を支え続けている。


連載 書店の街はどこへ行くのか~早稲田と本、変わる距離
第1回 書店の街はどこへ行ったのか
第2回 老舗古書店
第3回 大学の書籍基地
第4回 早大生と本(前編) その心に書店は
第5回 早大生と本(後編) 5つの距離感
第6回 VR古書店(前編) 文化推進学生アドバイザー
第7回 VR古書店(後編) 次代に何を残すのか
最終回 書店文化は終わらない